城下町小幡桜並木(2014年4月5日)


雄川堰桜並木

雄川堰桜並木

雄川堰

雄川堰

 
城下町小幡桜並木は、道の駅甘楽の東に位置し、54本のソメイヨシノが植えられている城下町小幡の玄関口。保存・復元が進められている白壁の武家屋敷や養蚕農家群と、桜並木に沿って流れる日本名水100選「雄川堰」が、江戸風情を醸し出しています。



 小幡は近世小幡藩二万石の城下で、陣屋が置かれ町場を形成していて、織田・松平の両氏が在城した。元和元年(1615)織田信長の次男信雄に小幡藩が給され、元和2年(1616)に信雄の3男信良に上野国2万石を分領し、信良は福島村の陣屋に入国した。寛永19年(1642)3代信昌のとき、小幡に陣屋を構築し移り、同時に町場も整備され、以来廃藩までこの地は小幡藩陣屋所在地となった。織田家は以来7代150年あまり当地に留まったが、明和4年(1767)藩主織田信邦は明和事件に連座して蟄居処分を受け、その養子信浮は出羽国高畠に移封となった。代って同年松平忠恒が入封し以後明治維新まで松平家の支配が続いた。



雄川堰
 織田信長の二男、信雄が大阪夏の陣の功績により、元和元年(西暦1615年)7月23日に大和国松山(奈良県)三万石と、上州小幡二万石を家督相続させた後、織田宗家として小幡に陣屋を築いたときに整備したものである。織田氏及びその後を承継した松平氏は、御用水奉行を置き、水の大切さを説き、雄川堰の管理に力を入れたが、現在は地元住民の手により守られている。







  
       桜並木に井戸が?

 



武家屋敷

食い違い郭

石垣で見かけたスナップ


 甘楽町は、織田信長の次男・信雄から8代(152年)にわたり織田氏が統治した土地で、織田家ゆかりの城下町として当時の面影を残しています。この武家屋敷地区の中小路に面して、武家屋敷の面影を残す小幡藩勘定奉行「高橋家」や、中小路の石垣(柴田家)、食い違い郭などがあります。


高橋家の庭園

 心字池を中心にした庭園には、蓬莱の滝が昔のままにさわやかな音をたてています。

食い違い郭

 旧陣屋の中小路に面して造られた「喰い違い郭」。戦の時の防衛上のために造られたとか。また、下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れたともいわれています。

大奥の庭園

大奥といっても2万石の小幡では、奥方と何人かの腰元だけでした。庭園は江戸後期に造られ、静の庭(流れのない池)と言われる大奥にふさわしい落ち着いた感じの庭園です。

中小路の石垣(柴田家)

 中小路の道幅は7間(12.6m)あり、柴田家の石垣はこの中小路の右側「北側」奥の石垣で、東西方向に44.2m築かれている。1642年(寛永19年)に構築されたと思われる石垣です。

松浦家

 松浦家は、武家の屋敷構えを良好に残し、雄川堰(おがわぜき)の地割と一体となって屋敷と庭園が造られています。
  
 

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